TEDで「恥辱の代償」をプレゼンするモニカ・ルインスキー

TEDで「恥辱の代償」をプレゼンするモニカ・ルインスキー

先月下旬に放送されたNHKEテレの「スーパープレゼンテーション」。登場したのはモニカ・ルインスキー(Monica Lewinsky)。ホワイトハウスの実習生だった彼女は、ビル・クリントン(William Jefferson “Bill” Clinton)元大統領との不倫スキャンダルが1998年に発覚し、弱冠22歳にして世界中のマスコミの標的となった。

番組は米国で開催されるTEDカンファレンスを日本語字幕付きで紹介するもの。TEDとは、Technology Entertainment Designの頭文字。多様な分野の有名人による講演が毎週紹介されている。

 

2015年の“モニカとテッド”

当稿の主人公モニカ・ルインスキーは、国のトップとの“不適切な関係”が報じられた以降、就職もできず米国を離れたこともある。そして久しぶりのメディア登場の場としてTEDを選んだ。当時の心境と自ら経験した“ネットいじめ”の危うさを語ったプレゼンのタイトルは、「The price of shame 恥辱の代償」だった。

まず序盤はジョーク交じり。例えば10年ぶりに公の場に立ったのは20代むけの講演会だったが、1500人の聴衆の年齢は98年当時4歳から14歳。「私のこと ラップで知った人いるかも(彼女はかつて40曲ほどのラップの歌詞のネタになっていた)」の発言には、聴衆から失笑がこぼれた。その講演会の日、27歳男性が41歳の彼女を口説いて曰く、「もう一度22歳の気分にしてあげるよ」。嬉しかったが、モニカは断ったという。「40代で22歳に戻りたくない人は、私ぐらいでしょう」。これで大爆笑、会場の雰囲気は一気に和らいだ。

しかしそこからの発言はきわめて重かった。スキャンダルの前まで、ニュースの手段は3つしかなかった。活字メディアを読む・ラジオを聴く・テレビを見る。しかし98年には既にインターネットが普及し、人々は欲しい情報をいつでも・どこでも入手できる時代になっていた。これがモニカにとって致命傷だった。

“恥辱”は98年1月にネットから始まる。「情報源としてネットが従来のマスコミを超えた最初のケース」だ。「世界中でクリック音が鳴った」「まったく無名の一般人だった私が、一夜にして全世界の晒し者になった」と彼女は振り返る。「世界規模で信用をなくした“ネット晒し”の被害者第1号」だったというのである。

両親は彼女が自殺するのではと細心の注意を払って、いつも彼女に寄り添った。シャワーを浴びる際にも、ドアを開けっ放しにさせたそうだ。長く世間の目から逃れる必要があった。英国留学がしばらく続いた。

ところがモニカは帰ってきた。ターニングポイントはSNSが既に普及した2010年。18歳の大学生が寮で盗撮され、その映像がネットに晒されたことを苦に自殺した事件が契機だった。彼女は自らの“恥辱”経験について、確度を変えて見直すようになった。その結果、“ネットいじめ”について見えてきたことがあった。

もちろんネットには、多くの利点がある。「家族の再会、人命の救助、革命が起こったりもした」「一方で“ネットいじめ”が爆発的に増えた」「特に傷つきやすい若い子たちが被害にあっている」「生きていくことがつらくなって、自殺する人もいる」「恥辱というのは喜びや怒りより強烈な感情」とネットの負の側面を告発する。

 

そして圧巻は、恥辱の文化という分析だ。「ネットでの辱めは広がって行くし、永遠に残る」「何百万もの人が匿名で罵詈雑言の浴びせる」。かくしてネットに限らず現実世界でも恥辱が助長されるようになった。「ゴシップサイトやパパラッチ、政治・マスコミまでが恥を取り扱う」「抵抗を感じなくなってきたから、荒らし、プライバシー侵害、ネットいじめが起こる」「こうして“恥辱の文化”ができてしまった」。

しかも「恥辱に値段がついている」「他人のプライバシーを、まるで資源みたいに採掘して、売って、利益を得る」「激しい恥辱ほどクリックされ、広告収入アップ」「恥が産業化してしまった」。ネットの増幅機能が、負の拡大再生産をして止まらない危険を訴えたのである。

公の場に出るようになって、モニカが最も受けた質問は「なぜ、今になって話すのか?」だった。まっすぐ前を向いて彼女は答える。「時が来た」「自分の過去と向き合って、人生を再スタートさせる時が来た」。

「私たちは今、恥辱の文化を改めるべき」「私たちがすべきこと、それは思いやりと共感を取り戻すこと」と、肩書が社会活動家となった彼女は続ける。学者の言葉を引きながら、「少数派でも一貫して主張し続けることで変化を起こせる」「私たちはよく表現の自由について語るが、それに伴う責任についても語るべき」「みんな自己主張したい。けどきちんと発言するのと、目立とうとして発言するのは違う」。

プレゼンのエンディング。テレビは固唾をのんでモニカの話に聞き入る聴衆と場の空気を映し出した。そしてかつて恥辱にまみれ、完膚なきまでに打ちのめされた一人の女性が、自らの負の経験をとことん直視することで正に転換し、確かな足取りで再チャレンジし始めていることを魅せていた。最後の挨拶は、全員がスタンディングオベーションとなった。

正直、驚いた。17年前、テレビニュースは毎日モニカを描きながらも、共感なき取材は彼女の内面を全く映していなかった。映像メディアテレビの限界である。ところが同じテレビが、瀬戸際から生還した彼女の言葉と実存を通じて、再チャレンジを評価する米国の可能性を示したからである。

そしてもう一つ、“モニカとテッド”が示したアメリカの実力を、17年前にも筆者は見せつけられていたことを思い出した。98年夏、その時筆者はABC「ナイトライン(Nightline)」の現場にいた。スキャンダル発覚から半年後、「不倫疑惑」の物証となったドレス(大統領の精液が付着したもの)が出て来た瞬間だった。

1998年の“モニカとテッド”

その日筆者は、ABCニュースの好意で番組が放送されるまでの一部始終を見学させてもらっていた。当時の同番組は、一つのテーマを深夜に30分で描く、米国でのラストニュース的な存在だった。NHK「クローズアップ現

スキャンダルについて語るテッド・コッペル(YouTubeから)

スキャンダルについて語るテッド・コッペル(YouTubeから)

代」の原型のような報道番組で、キャスターはテッド・コッペル(Ted Koppel)。硬派なインタビューでは米国随一と言われたジャーナリストである。

朝10時にスタッフが全員集合。予定では暇ネタが用意されていたが、超ド級のネタが飛び込み、テーマは急きょ差し替えとなった。そう、取材の対象モニカと番組を司るテッドが、この日の主人公になったのである。

ちょっと考えた末、筆者は駆け出しのスタッフに張り付くことにした。モンタナ州の大学から来ているインターン生だった。最初のミーティングの後、彼は1月以降のスキャンダルを伝えるニュース映像と、事件を多角的に解説するためのコメントバック映像をアーカイブにこもって集め始めた。

お昼過ぎ、番組ディレクターからVTRのあらすじが届く。これに基づき、インターン生は用意する映像を修正し始めた。そして夕方、今度は比較的しっかりとしたVTRの構成と仮のコメントが届く。またしても彼は、最適な映像を集めにアーカイブに走った。

実はインターン生は、試用期間で才能が認められると、番組内に中継で登場するゲストの人選や出演交渉役として採用される。そして合格点をもらえると、初めてロケを任されたり、スタジオの演出を担当したりする。ところが不適格と見なされると契約終了となり、中央を離れて地方のテレビ局に務める羽目になる。つまり番組作りの各レイヤーで勝ち続けない限り次には上がれず、失敗すると地方で再起を図る道を強いられる。ただし地方で再評価されれば、再びニューヨークなどの大都市で大きな仕事に巡り合うこともある。メディアやジャーナリズムの世界に再チャレンジの仕組みがあり、才能と仕事のミスマッチを最小化しているのだという。日本では大学を出ると直ぐに記者やディレクターになる。ただしミスマッチも散見される。日米のメディアは、仕事のトータルデザインに大きな違いがあることを思い知らされたのである。

大きな違いはもう一つあった。VTRの編集の仕方が全く違うのである。ナイトラインでは、コメントが確定するまで編集は1カットもつながない。放送開始3時間ほど前、ようやくコメントが固まり、編集開始となった。と言っても、まず始まったのはコメント録り。編集室はドアを閉めると完全防音。部屋天井の真ん中からマイクが下りてくる。リポーターがまずナレーションを音声トラックに入れる所から始まった。次に編集マンはインタビューや効果音楽などをつなぐ。そして映像は、音声トラックにあわせて最後にはめ込んで行った。この間、約10分のVTRの編集作業は2時間未満、恐ろしく早い作業だった。

実は日本のテレビ局では、映像を先につないで後で音を入れて行く。音入れをMA(multi audio)と和製英語で読んでいるが、古くは「F-V」と呼んでいた局もあるが、これはフィルムで撮影したものをVTRにし音入れするからだ。つまりフィルム時代は映像の編集が先で、その後に音声を調整した。日本ではこの習慣が、そのままVTR時代にも踏襲されたのである。

ところが米国のニュースや報道番組では、VTR導入の際にどの作業手順が最も合理的かを議論したそうだ。その結果、音優先の考え方が登場し、ニュースや報道番組では音を先に編集する方式になった。映っているものをどう解釈するかで方針が変わり得る日本と、事実をどう認識したのか取材者の責任が重い米国。そしてVTR制作のプロセスも結果としての出来も、テンポに大きな差のある日本と米国。その差の大きさに圧倒された1日だったのである。

 

“再チャレンジ”の前提は試行錯誤!

80年前後のフィルムからVTRへという変革に続き、放送からインターネットへのイノベーションが15年ほど後に訪れた。全ての変化にはプラスとマイナスが伴うが、変化の振幅の小さい日本と、思いっきり大きい米国との差を、17年の時を隔てて筆者は再認識した。単純に良し悪しを比較できるものではないが、少なくともどれだけ深く状況に向き合い、次の一手を真剣に考えたのか。その違いを軽く見てはいけないと、二つの“モニカとテッド”は筆者に問いかけているような気がする。

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